島津家
薩摩藩主。その蘭癖(西洋かぶれ)を父・斉興に疎まれ、なかなか家督を継げずにいたが、お由羅騒動の混乱を経て藩主に就任。開明思想に基づいた藩政改革を行い、西郷ら有為の人材を登用する。西洋列強の脅威から日本を守るために幕政の改革を志向し、幕府に発言力を高めるために養女とした篤姫に一橋慶喜を将軍継嗣として推挙するように命じ、将軍御台所として大奥に送り込んだ。
しかし、大奥の水戸嫌いは予想を上回るほどに根深く、工作は思うように進まなかった。外様の大藩・薩摩の藩主という立場から表立った行動を控えてきた斉彬は、遂に「慶喜を将軍継嗣とすべし」という旨の建白書を幕府に提出する。南紀派の井伊直弼が大老に推されると、対抗して越前藩主・松平慶永を推挙した。一橋派の敗北が決定的になると、洋式装備を有する軍を率いて幕政改革を促すための上洛を計画するが、演習の検分中に病に倒れ、弟・忠教や小松帯刀らに後を託して亡くなった。
死の直前に篤姫に送った手紙には、彼女に過酷な運命を強いた詫びの言葉と共に「将来、薩摩と幕府が敵対するような事態になっても、自分の信じる道を行くように」と記されていた。その手紙は江戸城総攻撃を息巻く西郷の心を動かし、江戸城無血開城の決め手となった。
しかし、大奥の水戸嫌いは予想を上回るほどに根深く、工作は思うように進まなかった。外様の大藩・薩摩の藩主という立場から表立った行動を控えてきた斉彬は、遂に「慶喜を将軍継嗣とすべし」という旨の建白書を幕府に提出する。南紀派の井伊直弼が大老に推されると、対抗して越前藩主・松平慶永を推挙した。一橋派の敗北が決定的になると、洋式装備を有する軍を率いて幕政改革を促すための上洛を計画するが、演習の検分中に病に倒れ、弟・忠教や小松帯刀らに後を託して亡くなった。
死の直前に篤姫に送った手紙には、彼女に過酷な運命を強いた詫びの言葉と共に「将来、薩摩と幕府が敵対するような事態になっても、自分の信じる道を行くように」と記されていた。その手紙は江戸城総攻撃を息巻く西郷の心を動かし、江戸城無血開城の決め手となった。
英姫:余貴美子 第13〜18回
斉彬の正室。幼い頃に患った疱瘡のせいで顔に痘痕が残ったことから常に頭巾を着用し、人と会うときも御簾越しでしか対面しない。斉彬にも捻くれた発言をする等、周囲の人間にも心を閉ざしていた。しかし斉彬が病に倒れた際は不眠不休で病の平癒を祈ったり、水戸老公・斉昭との対面を控えた篤姫に最新版の大日本史を届けるなど、本来は心の優しい女性。篤姫との触れあいの中で本来の優しさを取り戻し、夫とも本音を言い合えるようになる。篤姫輿入れの前夜、彼女の前で素顔をさらし初めて母親として言葉をかけた。
島津忠教→島津久光:山口祐一郎
斉彬の異母弟。島津氏の分家の一つ、重富家の当主。お由羅騒動では反斉彬派の旗頭に担がれたが、兄との仲は悪くはなかった。しかし、自身の海防策が不採用になったこと、お家騒動の融和のためにと進めた息子・右近と今和泉家の於一との縁談が於一の宗家養女入りで潰れたことから兄と距離をとるようになり、自領の統治に専念したいとの理由で斉彬の許を去った。
斉彬の遺言により息子・忠義が藩主となり、その後見として薩摩を託された。斉彬の遺志を継ごうと努めるが、当初は父・斉興が再び実権を握ったため、斉興の死後に漸く実権を握る。しかし、お由羅の子であるということと慎重な性格から血気盛んな若手の藩士たちには疑問を持たれていた。大久保ら下級藩士が脱藩突出を企てた時は、帯刀の進言を容れて諭書を出し、改めて所信を述べることで彼らの行動を鎮め、大久保を登用して若手藩士のまとめ役に抜擢した。
和宮が降嫁し公武合体がなると、帯刀や大久保の進言を容れて亡き斉彬の念願であった率兵上洛を決断するが、帯刀らの提案を受けて奄美より呼び戻した西郷に上洛は無謀といわれ、田舎者呼ばわりされたことから、その才を認めつつも激しい感情を露にする。上洛後は公卿たちと会見して京都警護を任せられ、寺田屋での急進派藩士の粛清を経て信頼を得る事に成功し、勅使を奉じて江戸へ向かう。強硬な手段で幕府の改革を断行させ、天璋院の反感を買った。その後、京都へ戻るが、既に朝廷では長州藩の勢力が台頭して薩摩藩の影響力が低下しており、やむを得ず薩摩へと帰国した。薩英戦争では徹底抗戦を唱え、総指揮を執った。薩摩藩による列侯会議に列席するが、諸藩を軽んずる徳川慶喜の態度に激昂する。維新後は小松の版籍奉還を受け入れる一方で、西郷らの政界進出と兄の理想の国づくりを想う。
斉彬の遺言により息子・忠義が藩主となり、その後見として薩摩を託された。斉彬の遺志を継ごうと努めるが、当初は父・斉興が再び実権を握ったため、斉興の死後に漸く実権を握る。しかし、お由羅の子であるということと慎重な性格から血気盛んな若手の藩士たちには疑問を持たれていた。大久保ら下級藩士が脱藩突出を企てた時は、帯刀の進言を容れて諭書を出し、改めて所信を述べることで彼らの行動を鎮め、大久保を登用して若手藩士のまとめ役に抜擢した。
和宮が降嫁し公武合体がなると、帯刀や大久保の進言を容れて亡き斉彬の念願であった率兵上洛を決断するが、帯刀らの提案を受けて奄美より呼び戻した西郷に上洛は無謀といわれ、田舎者呼ばわりされたことから、その才を認めつつも激しい感情を露にする。上洛後は公卿たちと会見して京都警護を任せられ、寺田屋での急進派藩士の粛清を経て信頼を得る事に成功し、勅使を奉じて江戸へ向かう。強硬な手段で幕府の改革を断行させ、天璋院の反感を買った。その後、京都へ戻るが、既に朝廷では長州藩の勢力が台頭して薩摩藩の影響力が低下しており、やむを得ず薩摩へと帰国した。薩英戦争では徹底抗戦を唱え、総指揮を執った。薩摩藩による列侯会議に列席するが、諸藩を軽んずる徳川慶喜の態度に激昂する。維新後は小松の版籍奉還を受け入れる一方で、西郷らの政界進出と兄の理想の国づくりを想う。
島津斉興(大隅守):長門裕之
斉彬の父。家老・調所広郷と共に財政改革を行い、藩財政を立て直した経験から嫡子・斉彬の蘭癖を浪費の元と見做し家督相続を渋り、庶子・忠教(久光)を跡目に据えんと画策する(ただし、すぐには忠教に家督を継がす意思がないような発言もしていた)が、お家騒動(お由羅騒動)の責任を取らされる形での隠居を余儀なくされる。隠居後は側室・お由羅と共に江戸・高輪の藩邸に住む。斉彬の死後、再び藩の実権を握ると幕府との無用の衝突を避けるため斉彬の改革に対する反動政策を取るが、程なくして亡くなった。
お由羅:涼風真世
斉興の側室。我が子・忠教を家督にと願い、薩摩藩にお家騒動を引き起こす。斉興隠居後は共に高輪藩邸に住む。斉彬襲封後も望みは捨てておらず、斉彬の子供が次々と夭折するのは彼女の呪詛によるものであると国許・江戸邸で噂されている。斉彬の死後、斉興とともに薩摩に移る。
島津忠義(又次郎):中川真吾
久光の長男。第12代(最後)薩摩藩主で、島津氏第29代当主。久光の嫡男。斉彬の臨終の際に斉彬の子である哲丸を准養子とする事を条件に継嗣となった。やや血気に勝る性格で、父に諌められる事もしばしばある。藩主としては薩英戦争に参戦。また王政復古の大号令の際には朝廷に参朝した。
於哲:吉高由里子 第4回、第6回、第12回
島津忠教の娘。御一門家の娘の中ででも器量良しの姫であった。
島津右近:加治将樹
島津忠教の子。斉彬の藩主襲封の際に於一を見て一目惚れし、父の後押しもあって縁談にまで進むが、於一が斉彬の養女となったために断念する事となった。
島津寛之助(ひろのすけ):近藤隆正
斉彬の子。斉彬が世子の折に幼くして病没する。その病室の床下からお由羅による呪詛人形が発見されたとの噂が広まり、後の騒動の遠因となった。
島津篤之助(とくのすけ):本川嵐翔
斉彬の子。寛之助に続いて夭折し、斉彬を大いに悲しませた。
於定(おさだ):阿嘉真理乃
島津忠教の娘。姉妹の於哲や於寛らとともに宗家の姫となった篤姫に謁見した。
於寛(おひろ):戎怜菜
島津忠教の娘。姉妹の於哲や於定らとともに宗家の姫となった篤姫に謁見した。
虎寿丸:渡邉奏人
斉彬の子。篤姫が江戸に上った際に藩邸で世子として育てられていた。篤姫になついていたが、間もなく早世した。
典姫の母:津金恵里沙
斉彬の側室。江戸の藩邸で娘を育てている。
てる姫:飯田汐音
斉彬の娘。江戸の藩邸で暮らしており篤姫に懐いていた。
典姫(のりひめ):名波海紅
斉彬の娘。姉妹らと江戸の藩邸で暮らしている。
寧姫(やすひめ)
斉彬の娘。姉妹らと江戸の藩邸で暮らしている。一番下の娘で篤姫にも懐いていた。
ウィキペディアより引用
